竜田川   たつたがわ   TATSUTA GAWA

江戸系   中生   白地に紅の大覆輪の三英花。花径はおよそ16cm前後の中大輪。草丈は70cm前後。葉は垂れ葉。性質は多少弱く、繁殖は普通。

江戸花菖蒲の古花の中でも、松平菖翁作出の「菖翁花」と呼ばれている品種の一つ。菖翁の品種目録、「花菖蒲花銘」には、「三英紅大底白」とある。現存する立田川は垂れ咲きで、受け咲きを好んだ菖翁の作としてはちょっとだらしない花に思えるが、「花菖蒲図譜」や三好学博士の「花菖蒲図譜」の図は、平咲きで花弁の縁に小波を巡らした粋な姿に描かれているので、菖翁作の「立田川」は今日の花とは別種で、もっと平咲きの花だったのかも知れない。

 熊本花菖蒲の多くの品種が本種から改良発達したとされ、特に「深芳野」などは竜田川とよく似ている。菖翁作出の江戸の花でありながら、唯一熊本花菖蒲として満月会では扱われているという。


菖翁昔語り  その2
1831年頃(天保2年頃)肥後藩第12代藩主、細川斉護公は、江戸の松平邸にて菖翁の花菖蒲を拝見、ひじょうに珍しがって分譲を乞い願ったところ、菖翁は「細川は金持ちであるから、花屋から買ったら良かろう。」と言って断った。そこで早速、江戸の花屋を方々探したが、松平邸にあるようなすばらしい花はなかった。菖翁59歳頃の話。(実際園芸より、西田信常翁談)

そこで斉護公は、お使番の吉田潤之助という人物を菖翁に入門させた。潤之助は天保4年に江戸勤番となり、そのとき麻布の菖翁邸を尋ねた。自作の花を固く秘蔵していた菖翁も、潤之助の誠実さと細川公の真の花好きを認めたのだろう、天保の末頃、潤之助が熊本に帰国するにあたり、餞別として秘花5品種を潤之助に譲った。熊本では、花作りの名人と言われた潤之助の兄、山崎久之丞がその培養に当たった。

菖翁という人は、性質が潔白で正直で、目上の者だからと媚びへつらうような人物ではなかった。加えて、父の代より、そして自分が長い年月丹精して改良してきた花が門外に出て、俗人の手に落ち、花の見方もわからないような者に評価され、露天の花屋の店先に並ぶのが嫌いであったので、一介の旗本でありながら、細川氏のような大大名の乞いにも応じなかった。江戸時代のような封建時代に、これはなかなかすごい事であり、かつ腹を立てずそれではと菖翁の花菖蒲栽培とその精神を学ぶため、潤之助を菖翁に入門させた細川氏も心が広い人物であったと言える。

また菖翁は、潤之助のような小身の人物が、菖翁に花を見せて下さいと言うと、「よしよし、君らは遠方より江戸に来て、小さな宿舎で何の楽しみもないだろうから、何でも好きな花を持って行き、庭に置いて楽しみなさい。」と言って、その花を愛する心を大いに喜んだそうである。翁はほんとうに心が広く花が好きだったのだろう。以来潤之助は花を借り受け、ひそかに藩主のところまで持って行って、斉護公に見せてさしあげたそうである。(熊本上妻文庫 「肥後藩の物産家と園芸家」より、一部脚色)

そして嘉永5年(1852)菖翁より花菖蒲苗と、菖翁著書「花菖培養録」が正式に熊本に譲り渡された。記録によると、この時は50品種弱が熊本に渡ったが、それ以前にも20数品種が渡っており、計70品種前後が熊本に伝わった。菖翁は苗を分譲するにあたって、自らの長年の成果である花の将来を案じ、花菖蒲の門外不出と良品種の作出にあたっては、江戸と熊本の相互交換を条件とした。



現代の私たちの感覚からすれば、考えられないような話である。金で買えるものではない。人と人との固い相互信頼の上、はじめて入手が可能になる。以来熊本の満月会では、現在も菖翁の門外不出の申し渡しを固く守り、花菖蒲の苗は親兄弟にも渡さず、殖えた余剰苗は立会人の前で焼き捨てるようなこともあったそうである。
何もそこまでしなくても・・・と思うのは現代の感覚だが、「玉 洞」などこの上ない品格の高い花を観るとき、そこまでの精神があたからこその花だと感じるのである。