深芳野   みよしの   MIYOSHINO

熊本花菖蒲   中生   白地に紅覆輪ぼかしの三英。直径16cm程度の中輪。
草丈は50cm前後。性質、繁殖は多少弱い。

明治時代に熊本の満月会会員の永井好古氏によって作出された。親は菖翁花の「立田川」で、親によく
似ている。豪華な花が多い肥後系(熊本花菖蒲)だが、熊本での栽培初期の頃はこのような江戸花菖蒲
と大差なかったことがわかる。

江戸時代の天保から弘化年間頃(1830〜1847)、斎護治世の熊本で、花菖蒲の図譜「群芳戸帖」が作られる。
この図譜に描かれている花菖蒲は、熊本で栽培されていた花であるが、江戸花菖蒲特徴である受け咲きの花
がほとんどである。当時江戸で栽培されていた花菖蒲を、熊本に持ち込んだものと思われる。



時代の推移と花形 西田信常翁遺稿より
花弁の垂れぐあいについては、信常が初めて花菖蒲に手を染めたときは、未だ幕末の気分豊かなる時で、
当時の観賞の点は、やはり武張っているような花形、花弁が堅く、かつ垂れ方も少なく、四角ばった花が
上花とされていたが、それより時代が遡って、菖翁の時代には受け咲きや抱え咲きが賞観され、「六 合」
という強い受け咲きの花さえ貴ばれたという。

しかし明治維新とともに、人情や風俗も年毎に変わり、花の観賞の様式も移り変わり、廃刀の令もあって
武勇を顧みる者もなくなり、着衣も裾が長くなりはじめた頃、花形も「栞咲き」といって、2寸(6cm)程度
垂れる花が好まれるようになった。

明治10年の西南戦役後、人情風俗とも大きく変化し、着衣の裾は下駄に触れるようになり、羽織の裾は
着物より僅か2寸ほど短く、袖も長くなり、人心も惰弱に流れたが、この頃の花形もまた「下り咲き」となって、
ただ力なく垂れてさえいれば上花と言われたが、それもつかの間で、金融が逼迫し、人心は緊張して心を
安んずることが難しくなってくると、「不二山形」と言って、3寸ばかり垂れる花が好まれるようになると同時に
花色も白色、濃紫の無地、藍色に白筋のようなものばかり好まれ、紅色や絞りなどはほとんど見捨てられて
いた。

それが、明治27年の日清戦争が過ぎると、人心も大いに緩和して、花もまた力のある垂れ咲きとなり、明治
37年の日露戦争後は人心もなお緩和して、花弁の垂れ方もなお一層加わり、色彩も紅色、絞り、覆輪など、
次第に変わったものが好まれるようになった。花の締りも強く締まりすぎるものは「余情が少ない」と言って、
芯の締りがゆるいものが好まれるようになった。

大正7.8年ころになると、人心は大墜落を来たし、虚飾虚栄の極みに至ったが、この頃花形も大いに垂れ、
花弁が下って殆ど山形を失うほどの丸型とならんばかりの花形になり、色も多様なものが好まれるように
なった。(後略)


この文章は、昭和13年に亡くなられた衆芳園の西田信常翁の遺稿からの抜粋で、現代風に多少手直し
した文章だが、時代とともに熊本花菖蒲の花形や色彩の変化の様子がわかり、たいへん興味深い。