加茂花菖蒲園花菖蒲データベース https://kamoltd.co.jp/katalog/index.htm



朝霧の桜   あさぎりのさくら   ASAGIRI NO SAKURA

肥後系   光田氏の品種リストには「濃いカトレア色厚弁六英花」とあったが、実際に咲かせて
みると、それほど濃いカトレアピンクでもなく、花弁の淵は白く抜けていた。芯は崩れ何本も立ち、
花径は約18cm程度の大輪で大きな花だが、花形のまとまりがやや悪い感じだった。
1989〜93年頃、光田義男作


私は、光田氏とはあまり面識がなかったので、適任ではないかもしれないが、少し書いてみると。
その作花の印象から、豪華で派手好きな濃ゆい感じの方かと思っていたが、お会いしてみると、
氏は小柄で痩型で、白髪、物静かで控えめで上品な方という印象であった。園主の加茂は、どちら
かと言えば人嫌いで、風貌も冴えない。しかしその性格が、花に精神を傾ける基になっていたのでは
ないかと話される。戦前から熊本花菖蒲を横浜の衆芳園から入手し、戦後、そして87歳でこの世を
去られるまで、肥後系花菖蒲の品種改良一筋に歩んで来られた。

1965年頃から自作品種の通販カタログも作っておられ、毎年10数種類の新花を発表され、全体では
100品種を越す光田系のカタログだった。新花などは、3万円など破格な値段が付いていたが、栽培
面積も少ないし、発送もなかなか大変だから、あまり単価が安いと注文が多くて苦労するので、あまり
売れないように、単価を高くしているとのことであった。

日本花菖蒲協会の会合にも、わざわざ名古屋から参加してくださったが、あまりご自分の新花を
紹介し自慢されることは少なかったように思う。またそのあまりに豪華絢爛な花なため、江戸花菖蒲
好きや、肥後系の厳格さを尊重する向きからは、下品でくど過ぎて見え、氏の作花をなかなか認め
ないというような風潮もあったように聞く。平尾先生や冨野先生も、氏の花には総じて批判的だったという。
光田氏が亡くなられた後で、加茂は、日本花菖蒲協会も、もっと光田氏を認め、氏の活動を保護し、応援
してあげるべきだった。と話した。

同じ肥後花菖蒲を手がけた人でも、平尾先生とは全く正反対に、こつこつと自分ひとりで、他のものには
わき目もふらず、肥後花菖蒲一つを長年にわたり育種されて来た方である。その成果が亡くなられた
後も、花として残っているのである。