『花菖培養録』  現代語訳 (意訳)


自 序
 古代中国に於ては神農(農業神)が植物を選び、わが国では多くの神々が価値ある植物を植え初められて以来、このように植物が尚一層増えて来たのは、人が愛し栽培したことによる。私は八十一歳に及ぶまで、人々の好き嫌いする様子を覧てきたが、みな同じではなかった。その中で、詩を作る人はその情を綴り、歌を読む者はそのさまを詠い、名所旧跡風土の異なる事があっても皆その眺めにふけり、村老野夫児女に至るまで愛するものは花である。

 父は生きていた時、様々な花を好み園中に育て、眺めては飽かずにに楽しまれたが、役職の身で栽培が行き届くはずもなかったので、私も同じ花好きだったからその苦労を助けた。父が亡くなってからもなお花に飽かず、ことに花あやめ(花菖蒲)と名付けた素晴らしい花こそ、実に老いを養う友と親愛した。

 萌芽の形状によりその年の花の出来具合を鑑定し、暮春の頃よりその花目前に見るが如くであり、夏が来て咲く花々の、私でさえ飽の来ない眺めは、長い一日を忘れさせ、涼しげな葉の茂みは風になびいておのづから納涼の興を添え、葉末にむすぶ白露の散る玉ごとに月影を宿し、いつしか秋も暮れゆきて、朝な朝の薄霜に、枯れ葉のさまに名残りを思い、閑窓に炉を開き冬籠もりして、また来る春に萌え出るであろう新芽を待つ楽しさは例えようが無い。

 この花の栽培が、ほんのわずかだが判ったと思われるので、一小冊にずさんながら綴り、題して「花菖培養録」と言う。見る人は物好きと笑うかもしれないが、本当に花が好きな君子ならば、老いぼれのたわごとで無いことがわかるだろう。



 嘉永六年癸巳の年青陽        八十一翁  定 朝






 世に花菖蒲と呼んでいるものがある。その形状はかきつばたに似て葉が長く、花もまた似ており三英六英いろいろに変わり夏に開く。宿根して翌年また花を競う。中に実生で育てたものがあり、未曾有のすばらしい花が現れた。

 父はさまざまな花を好まれて、天明の頃(1781〜1788)三年あまり信州に自生する「花あやめ」なるものを栽培したが、実生がすべて親と同じで、変わった花が咲かなかったので、丹精の甲斐もなしとその後は止めてしまった。

 その頃予州松山のある人から、みちのくの安積沼の花且美(はなかつみ)の種子であると贈られた。この実生が育って様々な花が咲いた。その草を三代四代と実生されたところ、花形が非常に変わって、大輪で色の素晴らしい花が咲いたのでとても喜ばれた。

 この草はもとは水草だが、水気をはなし花壇に栽培して返ってよく繁茂したので、ついに水を湛えて栽培したことはなかった。 寛政の末(1800)になると少しは業(芸変化)のある花が咲いたけれども、いま思ってみるとつまらない花だが、その頃は賞賛したことであった。

 その後、文化の頃(1813〜1817)、肥田豊州に会ったとき豊州の言うには、「命により以前みちのくへ赴いたが、そこに安積沼と呼ぶ旧跡があり、そこに花且美という草があり、花がたいへん可愛らしく美しかった。それで良い花を選んで持ち帰った。今なお園中に生えるのを見ると、彼の地へ旅したことを懐かしく思う」とのことであった。

 その草の形状を推量すると、かつて予州のある人から父へ贈られた花且美と変わらなかったので、ぜひ欲しいと頼んだらすぐに承知して、濃紫の六英花を贈ってくれた。園で栽培し実生もおこなった。予州の花と同種であった。


 諸国にて花且美や花菖蒲と呼んでいるものは、その説が皆同一ではない。いま、ざっとその一二の例を挙げると、信州にて自生する花菖蒲と称するものは、安積沼の花且美に似て原野に生え、その草丈低く紅紫の三英小輪のつまらない花が咲き水草ではない。安積沼の花且美は花菖蒲で沼に生える。またはカタバミに似た破銅銭とも云う水草は、かつみの名はあるが、花は無いと云うほどで、おそらくは別種であろう。 沼の領主に頼んで得たという草を見るに、アヤメ或いはチャボアヤメ、またはヒオウギアヤメの類であり良いものでもなかったが、これもまた沼に生えるなら花且美と言うのだろうか。
 私の家臣に奥州に親族がある者がいて、その地の沼の花且美であると言って寄越したものを園圃に栽培したところ、つまらないアヤメが咲いた。 勢州御裳濯川の花かつみであると言って、明王院某の沙門より贈られて来たものは、その草姿はアヤメであるが草丈高く、花は普通のアヤメの大輪であった。 薩州産の花且美であると言って、猿町に住む園芸屋で庄七と呼ぶ者より得たものは、花菖蒲の草姿で葉の長さ十寸足らずの小輪の三英細弁で、瑠璃色がとてもきれいで花菖蒲と同時に開き、疑いなく花菖蒲の矮性種であった。 または安沢沼にも花且美があって、摂州名所図絵に見えるが、まだその花を見たことはない。そのほかいろいろな所に花且美があるだろうが、どれも見ることが出来ない。もしかすると蒲の穂を花且美というのなら、すべてこの類の通称であろうか。

 また文政の初め(1818)京都の守衛に命ぜられ、彼地に在事十数年の間、官舎の園中でこの花を栽培し、実生して優秀な花だけを選んで大君(仁孝天皇)に献上したところ、思いがけず喜ばれ、匂當の内侍を通じてお礼の言葉を戴いた。これは長年花を愛するお陰であるか、まことに恐れ多く嬉しいいことである。

 天保(1830)になって役職が変わり、この地(江戸)へ来てからは、杖を握って、内に養われる年だから役職を辞し、遁世、隠居して心身をさまざまな花に忘れている。ことに花菖蒲は昔から継続して栽培していたので、今もなおこの花を愛し、年々生まれて来る優秀な花を選び、花壇に加えて老を養う友としている。丹精の甲斐あって百品種以上の優秀花が出来た。 しかしながらその名前は花且美なのか、それとも花菖蒲なのか、どちらが本名なのか、いまだにその本当の名前がわからない。しかし古歌に、


 陸奥の安積沼の花かつみかつ見る人に恋やわたらん   古今集読人不知 或いは


 五月雨に安沢沼の花かつみ且みるままにかくれ行くかな    千載集藤原仲顕朝臣


 この歌よると、摂州住吉郡に花且美の名所があって、このように詠んだものか。または       


 野沢潟雨ややはれて露おもみ軒によそなる花あやめかな    拾玉集大僧正慈円



 中将実方朝臣が陸奥に配所していたとき、みすぼらしい軒にどのように都と同じ菖蒲を葺いたものかと、端午の節句に花且美で軒を葺いたという。            広益俗説弁後編四十三の巻 

また実方朝臣がみちのくに居た時、その地方に菖蒲が無かったので、水草であることに変わりはないと五月五日に花かつみを葺いた。それよりその地方の習慣となって、花且美を葺くようになったと言うのはまちがいと言う。 上に同じ



 あやめ草ひく手もたゆく長き根のいかで安積の沼に生けむ    寛治七年郁芳院根合藤原善孝


 しかしこの歌から考えると、その地(みちのく)にあやめ草(菖蒲)はあったのかもしれない。その説の理由を考えるに、実方朝臣の配所(流刑地)の住居であったために、遠慮して、菖蒲でなく花且美で葺いたのではないだろうか。花菖蒲を花且美というのは地方の方言ではないだろうか。別に花あやめというものがあることは慈円(1155〜1225)が詠んだ歌でも証明されている。



 陸奥で花且美と呼ぶ花菖蒲に限って、実生によりその花が様々に変化してきたことは実に奇であり妙である。しかし安積沼に生えていた時は、わずかに花形が違う程度で、花色まで変わる事はなかった。これは本来の性質を全うして生きているからなのか。私の園でも種子が飛び散って、自然に生えた時はつまらない花ばかりである。狭い園中であっても自然に生えたものは、野性の性質を失わないためなのか。

 秋の彼岸前から実が熟すので、採種し袋に入れ、部屋の中に貯蔵し7〜8カ月経て、翌春彼岸前に蒔くために、自然の環境をはなれ湿潤を失うがために、無量のすばらしい花を開くのであろうか。これは人力が暗通するのか、不思議なことである。

 また、この頃普及している花菖蒲の由来を私なりに考えてみると、以前、享和の頃(1801〜1803) 旧友の万年なにがしと言う人物が(当時江戸本所北割下水に住んだ旗本万年禄三郎)私の花を欲しがったが、父が丹精されて私に伝えられてから、何年もずっと作り続けてきたすばらしい花だったので、簡単に譲り与えるのも気が進まず、いずれ方々に広まって、果ては花売の手を出入りし、露店に並ぶようになることを嘆き、固く断って諾さなかったが、なおもしきりに頼んで止まなかったので、その愛慕する心を思えば、自分も人も花が好きな心は変わらないだろうから、それを断るのも本意でないと思い、ついに諾し譲り与え、栽培法もぜんぶ教えてやった。有名な花好きだったのでそれからは栽培法も私の言うことに背かず、次々に実生し優秀花数品種を作出したが、今は黄泉の国(あの世)へ行って帰らなくなってしまった。
 ああ、彼は花を好いても愛さなかったのか。珍しい花が現れると、すぐ売ってしまったと聞く。そうなら今普及している花菖蒲の多くは、彼の所から分かれたものではないだろうか。彼の園から出た奇品であるとして、「七福神」または「宇治の里」或いは「長生殿」などと言う花を見ると、「宇治の里」の一品種はかなり良い花だけれども、ほかの二品種は単純な平咲きのつまらない花だった。


 世間で請け咲きともてはやしている花形は、花弁が丸く重なり垂れず、ほんの少し野生種より進歩しただけの業(芸、変化)の無い単純な平咲きである。業のある花は異形などと嘲っている。人は元より十面十色だから、好き嫌いはそれぞれ異なり、所詮好みが違うだけである。業のある花を好き嫌いするのも、花が咲いても分からないような観葉植物を眺め親愛したり、または病気と知っていながら斑入り葉を好み、異類異形の珍奇植物を好むのも皆好き嫌いの片寄りである。
 かつて一種しかなかった花菖蒲は、今は増殖し狭い園に溢れており、そのすべての花が普通の花形でなく異形だけれども、花好きの癖だから人は人だし、私は私である。この事を人が知ればやかましく言い騒ぎ、知らなければ知らないでまたやかましい。年よりの片意地で異形の花を集め、珠花奇芳とひそかに思い、顔にしわの寄る年齢を嘆きもせず、花が過ぎればまた来る夏を待ちわびて、花を忘れる束の間もなければ、

 その発芽の管理から虫害の難易、草の優劣を考えるに、花菖蒲は三英六英に限る。小輪で花弁が細くカキツバタの花形に似たものは、野草だから園には植えない。花弁が丸く重っていても垂れ咲きは下品だが、花弁が厚くその業(芸、変化) によって、花弁がひるがえったりするのは、だらしなく垂れるのではないから下品とするのは間違いである。大輪でも絹布地のようなつるつるの平咲きで、業がなければ優秀花だとは言えない。絶品に至っては、開花の翌日はまだ半開きで、三日たってようやく満開してその業を現わし、保こと4〜5日にしてようやく萎んだ。

 また業と言うのは、抱咲き、爪折れ抱えよれ、狂い咲きなどの事で、その中にまた優劣があるが、全て書き記すことはできない。私が優秀花であると親愛しているのは、絨地縮地(ビロード状チリメン地の弁質)で、花弁が厚く、丸く幅広く重なって、十分に勢いがある大輪で、色も形も良い花である。しかし元来花の宗匠として鑑定する規則も無く、ただ私が自分の好みにはまり込んでその形をひいきする事だから、あの花は良いとか、どの花が悪いとも言えない。今その優劣を論じているが、あえて私の流儀を模範にせよと言うのではない。私が良いと思うものを自分流に鑑定して親愛しているだけである。その思いの篤いために他ならない。

 さて、実生株が初めて咲く時、八重千英の花形が出現する事があっても、翌夏実生から三年株になって咲いた時は花形が乱れ、初めて咲いた時の姿を失った。アヤメに千英の花形を持つものがあり、毎年花形が変わることは無いけれども、近縁の植物であっても花菖蒲は、まれに八重の花形が現れても、それは本来の花形ではない。
 しかし昨年、実生初咲の中から八重の形状を含んだ花を多く選び栽培したところ、今年になって咲いた花の中から一草だけ、花形が十倍に変化した未曾有の奇品が開花した。六十余年この花形に心酔して来たが、ようやく成就した。ああ、人の力が創造主の力と知らぬ間に合致したのか、ついに奇品が出るに至った。

 また振り返ってみると、数十年間実生を怠らなかったため、これまででも八重の花形が現れていたかも知れないが、つまりは自分の目が劣っていたため、それに気づかず、せっかく現れていても、そのまま捨ててしまったものも多かったのではと後悔しているが、これとてもまた親愛する気持ちのあまり夢中になっているために、そう思うのであろう。

 性質の非常に違う菊と比べるのは適当でないかもしれないが、「折れ抱え」と言われる花形は昔は無かったが、紫色で折れ抱えの業のある小輪の菊を「振鼓」と名付け、勢州の業者が持ってきた。その秋、花を初めて咲かせ、その実を蒔いた訳でもないのに、その秋に、諸方の実生園に折れ抱えの花形を持った花が初めて現れ、「それからずっと続いている。」と、菊花培養の祖ともてはやされている、馬龍という隠居の老人が寛政のころ(1789〜1800)語っていたことを思いあわせると、その花形の現れる時が来のではないだろうか。それならば花菖蒲についても、今後諸方の実生園に八重千英の花形が現れるだろう。

 前にも述べたように、数十年この花を育ててきたけども、園圃に秘めて置いたので知る人もなかったが、近年花菖蒲が流行したため私の園も人の知るところとなり、夏になって花が開くと、見に来る人たちは一日が短すぎると狭い園に大勢押しかけ、根ごと自分の園に移し植えて、ゆっくりと眺めようと苗を希望する者は数え切れないほどである。
 要望を聞き入れ分譲を許したら、栽培法も教えてくれと言うので、ずさんながらも長年試みたこと等も詳しく話してやったが、質問したくせによく聞かず、半信半疑で、しかも自分勝手に間違った栽培をするのでよく育たない。そうなると罪を、私と、風土のせいにしてしまう。

 しかし私は、このことをけなしている訳ではなく、つまるところ親愛するあまり夢中になっているからだろうと思っている。花に酔うのは風流の一つなのだろう。私にしてもあきもせず、うつけ者のたわごとを一小冊に綴り、図を入れるのに老いぼれのへたくそな画きで模写するのだが、これは普通の花あやめではなく、実に牡丹と間違える程の花形だから、そして花菖蒲本来の姿を失った花形を、私でさえ不思議と思う程だから、読む人があれば嘲笑うだけで信用しないのは当然だろう。疑惑があれば私の荒園の満開を見て証明とされたい。 同じ花菖蒲でも普通のものとは雲泥の違いがあることは、例えば動物にも麒麟や鳳凰というものがあり、また、水溜りと河や海とを見比べるのと同じであろうとご承知ありたい。



(絵図譜二十一品種)
「雲の峯」 「木綿手繦」 「霞の波」 「雪の松」 「昇 竜」 「雲衣裳」 「帰雁の操」 「雲龍」「仙女の洞」「五湖の遊」「鳴鑾」「虎嘯」「六合」「東下」 「菅絃の声」「紅粉青娥」「立田川」「月下の波」「獅子奮迅」「霓裳羽衣」 「宇宙」

 「草表裏の図」


花あやめ うつしゑに志て 鎮にその面影を 眺めけらしや

みぬ人は いぶかしとせん 八重に咲く園に盛の 花菖蒲くさ





盆植培養 (鉢植え栽培)

 植えつけの適期は秋の彼岸が良い。残暑の厳しい年は様子を見て、彼岸後に鉢から株を出し、一篠づつに株を分けて古い根を取り去る。
 植え土は、前もって排水溝の泥を掘り上げて乾燥させておき、それを目の荒いふるいで通したものと、山砂二割、赤土を小豆大位にふるったもの三割。この三つをむらの無いように混ぜ合わせ、なお赤土の親指の頭大にならしたものを鉢底に多く入れ、鉢の大小にもよるが、一般に親鍔と呼ばれる鉢なら、三本の苗を入れ、草の表を外にして、鉢の中心に寄せて釣り下げて持ち、乾いた土をさらさらと入れ、程よく苗を引き出し、根がもつれないよう、自然に生えたように浅く植えつけ、土を入れたまま鉢を揺り動かして土を沈め、如露で水をかけ、鍔際まで土の中に埋め、冬至前より鉢の中に木の葉を敷き入れ霜除けにしておく。

 また、鉢底の水抜き穴は大きい方が良い。土も荒いものを使い、なお鉢底に赤土の目の荒いものを多く入れるのは、鉢の中に水が溜まらないようにするためである。
 すべて鉢植えは、植え付けた時の一両日中に強い雨が降るときは、いつまでも水分が抜けず、水腐れして根の状態が悪くなるものだ。 地植えと違い、十分注意して栽培しないと良く育たない。今まで水抜き穴の無い鉢に植えてあった株、またはあらきたと呼ぶ土地で栽培していた株などを、野土と呼ぶ黒土の土地へ植え替える時は、根に着いた土を全部洗い流し、しばらく乾かしてから植え付けなければ衰弱するものである。
 花菖蒲は水草だとして、水抜き穴の無い鉢に植え付け、水を湛えて栽培する人も多いが、鉢栽培する時は草勢が弱く十分に肥え難いので、本来の花が開かない。葉も薄く弱いので、霜が降る九月中の節頃には枯れ始めてしまう。 水抜きのある鉢植えは、肥料の効きが早いので十分に肥え、草勢が強いので晩秋になり霜が降りるようになっても夏時の姿を失わず、花がなくても眺めが良い。

 さて、実生初咲きの株を鉢植えにする場合は、花時に花形の優劣を鑑定してから、根が崩れないように堀上げ、花壇に移植して育てておき、秋の彼岸の頃に前に述べたような方法で鉢に植え付け、春の彼岸に鉢を掘り出して日当たりの良い場所に並べ、草木の葉は取り除いておく。萌芽して新芽が3寸程度に成長した時から、花芽が葉組の中に見られるようになる頃まで、二度、都合五度管理する。
 また、夏の暑い頃は、鉢を鍔際まで土の中に埋めないと、暑さで鉢の中が熱して新根が弱るものである。花壇植えの株は、開花後に三〜四篠づつに株分けして、草の表を外へ向け、組合わせて一鉢として植え付ける。また花壇に植え付ければ、そのままでも良く成育する。毎年植え替えるのが良いが、隔年でもそんなに衰えない。



実生培養

 秋の彼岸前より実が熟す。莢が少し色づいただけで割れない前に採り入れ袋の中に入れ、室内に貯蔵しておき、春の彼岸前に肥料分の無い花壇に薄く蒔く。苗代などのように厚く蒔くと混みすぎて、花壇へ定植後ほとんどの苗が弱り成長が良くない。朝夕の灌水を怠らないこと。

 三〜四寸位に成育した時、肥料を施し、梅雨時に抜き取り、圃場に苗の間を八〜九寸程にとり植え付け、毎日夕方に灌水する。植え付けてから十四〜十五日を経てから魚肥を施し、立冬の十月まで二十日間隔に施肥を行ない、翌春新芽が三〜四寸に伸びた時より、蕾が葉組の中に見られるようになる頃まで、二回施肥を行なう。こうすれば親草のように繁茂して殆どの株が開花する。よく肥えた株からは花篠が三本ほど出るものである。

 ある人は、「実生株は翌年は開花しないものだ、それは栽培の出来不出来とは関係のない自然の理である」と言う。しかし「為さざる者は無能な者とどこが違うのか」と言う言葉があるが、実生栽培に於ても風土だけのせいにして栽培が杜撰であれば、実生を翌年咲かせることは出来ない。それは、やれば出来るのに実行しないからである。

花菖蒲は本来作りにくい植物ではないのかと、いよいよ疑うが、風土を嫌う植物なら栽培は不可能となってしまう。それが解からないのは、所詮一時の楽しみで、本当に花を愛していない為ではないだろうか。
 京都にいた頃、実生を多く行なったが、実生苗の開花が変わることはなかった。私が花菖蒲を作っていることを伝え聞きき、我も我もと欲しがるので、方々へ実生苗を譲り与えたが、やはり翌年に開花するので、花菖蒲は風土を嫌う草ではない。実生が翌年開花しないのは、自分の栽培が杜撰なためである。
 花壇植え、鉢栽培とも苗を植え付ける時、草の表を外側に向けると書き付けたけれども、苗の表裏を選んで植え付ける者が少ないけれども、表裏を混ぜて植えた時は株際がもつれ、重なり合うために、よく育たない篠があるため、花茎の長短が出来るだけでなく、花も大小色々となって形状が美しくない。
 花菖蒲の類は全て片側に根が出て、葉に表裏があることは既に知られているが、老いぼれの筆で前に草表裏の図を画いておいた。墨で書いてある所は、取り去るべき古い根である。
 鉢植えと花壇植えの株分け適期が違う事を、不審に思う人があるかもしれないが、鉢植えを開花後植え付ければ、肥える前に株が混み合い、翌夏には弱ってひどいときは開花しない。しかし親鍔と呼ぶ鉢があれば、二篠植えであれば花の後に植え付けても十分に肥え開花するが、やはり花は少ししか咲かない。



虫 患 (害虫)

春の彼岸頃から胡麻粒程の大きさで黄色い羽根があり、背に黒い斑紋がある虫が発生して、株元の枯れ葉の陰に潜み、巳の刻(午前十時)頃より葉先に上り若葉を食う。初夏になると葉に卵を産みつける。人が近づくとたちまち散って見えなくなる。猛虫になると鳥もちを使わなければ獲れない。虫を駆除せずそのままにしておくと株が衰え、しまいには枯れてしまう。多発すると花菖蒲だけでなく、似たような草には何でも取り付き食い尽くしてしまう。 しかしこれまで花菖蒲のなかった土地に植える時は、五〜六年経たなければ発生することがないが、沢山植え付けると虫の発生が早くなる。また栽培する場所によってはこの虫の害を知らない。



肥しの製法

 数年来なまず骨の腐水を施して来たが、どんな植物でも良く育たないものはなかった。その作り方は、四斗樽と言われる酒の空樽や大きな瓶などに、なまずの骨を五〜六升(約十リットル)入れ、水をいっぱいに入れておき、夏なら十日、冬なら二十日を経て骨は残らず取り除く。施肥する時は水で二倍に薄めて使う。 あらかじめ作って貯えておいたものが無い時は、なまず骨を生のまま煮たものを施せば、腐水よりも肥えるものである。また糞の類は塩分が含まれているため、花菖蒲の葉が黄変する恐れがある。なまず骨の腐水は、色々な草花に施して効果があるので、ここに付け加えたが、その土地によっては異なることもあるだろう。

花菖培養録終わり

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